私の履歴書 – 高橋寿克
personal history
税理士 高橋寿克について
農家の12代目として生まれた私が、どんな道を経て 税理士になり、現在に至ったのかご紹介します。
氏名 | 高橋寿克 | |||
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誕生年 | 1965年生まれ | 性別 | 男 | |
血液型 | O型 | 兄弟姉妹 | 2人の妹がいる | |
家族構成 | 妻、一男、一女。両親も同じ敷地内に住む。 | |||
長所 | 未来の予知能力 | 短所 | 太りやすい!ただいまダイエット中! (20kg以上のダイエット7回) |
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趣味 | 仕事と家族。スポーツ観戦。ベットに寝転んで考え事。 |
経歴
1965 | 千葉県船橋市生まれ 農家の12代目に生まれる。 高橋家は代々働き者を輩出し、戦前から地域では大地主でしたが農地解放でだいぶ小作地を手放しました。それでも両親は働き者で、農業出荷額が市内では20年近く一番の野菜農家でした。地元船橋は近郊農業が盛んです(最近では ふなっしー の梨の方が有名ですが)。 |
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1970 | しらゆり保育園 入園 私たちは夫婦共働きで、子供たちは0歳児から入園しました。 |
1972 | 船橋市立塚田小学校入学 箱作り、キャベツ植え、市場への出荷の手伝いなど、農業を手伝っていました。入学当初は、通信簿は普通以下、三段階評価のBばかり。 授業中あくびばかりする子供で、病気ではないかと先生や親に心配をかけました。 途中からなぜか成績が上がり、塾通いを楽しく過ごしました。 |
1978 | 開成学園中学入学 社会科研究部に入り、社会の見方、分析方法をならいました。 高校生クイズ日本一の先輩に山手線ゲームで知識の精度や量を学びました。デパートのイベントで甲子園の優勝校・準優勝校をただ一人当てて、商品券をゲット。あだ名は「歩く東京スポーツ」と「よろず評論家」。情報を収集・分析するのが好きでした。 |
1981 | 開成学園高校入学 この頃、色素性痒疹という奇病・難病を発病。男性患者では世界で第一号。私の写真は複数の大学病院に保存されました。高校2年で勉強に目覚め、2学期はクラスでトップの成績を上げました。その後は燃え尽き、また病気の再発もあり、勉強する気がなくなる。それでも、高3の1年間は、過去の蓄積で常に上位100傑(400名中)だったので落ちこぼれてはいませんでしたよ。 |
1984 | 駿台予備校入学 高3の不勉強がたたり、現役での東大受験に失敗。翌年はリベンジを目指すも、社会の回答用紙の取り違いに試験時間半分経過後に気づき、書き直しというお間抜けなアクシデントもあり不合格。東大法学部は、長きにわたってコンプレックスになった。リタイアしたら東大で勉強してみたいと夢見ていました。 |
1985 | 早稲田大学政治経済学部政治学科に進学 コンプレックス解消のため、大学2年から司法試験を目指す。 |
1989 | 早稲田大学政治経済学部政治学科 卒業 闘病生活 病気が悪化し、強い薬を飲み、副作用を調べるため毎週、血液検査。 |
1991 | 大原簿記学校で税理士試験の受験を開始 すぐに死ぬことはなさそうだったので、生きていくために楽そうな資格を探し、選んだのが税理士試験。実際には、年数もかかったし大変でした。そのまま司法試験を受けていた方が早かったかも。1年で5科目合格を目指すも3科目合格にとどまる。翌年、2科目受験1科目合格。 |
1993 | 柳川一美税理士事務所に就職 千葉県で所得1位の税理士事務所でした。会計の分析技術、ていねいな仕事を学ぶ。仕事がおもしろすぎて最後の1科目が受からず、半年間受験に専念するため退職。税理士試験と仕事の両立は難しいと感じたことが、後にTOTALが受験生支援をするきっかけになる。 |
1998 | 官報合格 本橋義正税理士事務所に転職 合格はうれしいというよりホッとしました。転職直後は、コピーの取り方もわからず、ルールの違いもあり苦戦。半年後からなじむ。アットホームな良い事務所でした。 |
1999 | 高橋寿克税理士事務所開業 自宅の一室で開業。当初は、仕事がなくて暇でした。お客様の売上アップの苦労を実感する。飛び込み営業、異業種交流会、あいさつ状送付、DM、ホームページ、思いつく営業をとりあえず全てやってみる。お客様のためになるように頑張り続けると、いつの頃からか、集客ができるようになる。広告・価格の自由化が始まり、時代もよかったのかもしれません。 徐々に忙しくなり、スタッフを採用する。パート1号の女性は現クライアント、正社員1号 秋山行政書士は今も在籍中。 |
2001 |
結婚 あきらめない熱意を認めてもらいました。(ちょっと間違えるとストーカーですね) |
2001 | 行政書士事務所TOTAL開業 行政書士の先生から業際問題を指摘され、行政書士登録。 |
2003 | 祖父が死去 祖父と養子縁組していたため、相続に伴う「争族」を経験する。 |
2005 | 妻が司法書士事務所TOTALを設立 私が夜も出歩いて手伝わないため、妻は一人で子供2人を生んで育てながら、司法書士試験に合格。相続の仕事が増えるとともに会社設立をスタートからTOTALに受けられるようになる。ますます頭が上がらなくなる。 |
2006 | 事務所内クーデター勃発 営業は順調で、売り上げは年率60%も増加。ベンチャー企業状態でお客様のためにと忙しい日々を過ごすも、スタッフと気持ちがかい離してきていたのに気づかず、仕事中にナンバー2とナンバー3が反旗を翻し決起、即日解雇。この余波で20人近かったスタッフの3分の1が退社。おおいに反省し、以後、スタッフの気持ちに寄り添うとともに、わかるように説明することを心がける。 |
2007 | 税理士法人TOTAL設立 東京と船橋の2拠点になる 開成高校の同級生である沓掛税理士の加入に伴い、法人化。 |
2007 | 「税理士受験生必見!就職・転職マニュアル」開始 税理士業界に入ってきてくれる人のミスマッチを減らすように就職情報提供を始める。同種の情報サイトがなかったため、画期的な取り組みとなる。ただ、今日に至るまで税理士試験受験生の減少が続き、業界の魅力を伝えきれていないことに悔いが残る。受験生支援を始めると、毎年確実にスタッフが官報合格するようになり、税理士の数が飛躍的に増え始める。 |
2011 | 東日本大震災 秋葉原事務所移転 耐震工事がされていないビルの壁にひびが入り、スタッフの危険に配慮し、駅前のビルに移転。
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2012 | 新宿事務所 出店 スタッフ数も、売上も千葉県を上回り、東京中心の税理士法人になりました。 |
2013 | 井上会計合流 新宿事務所移転 事務所合流で、異なった文化が混じり、新しいものがつくられる。特にクリニックの開院、ドクターの支援はTOTALの強みとなる。 事務所合流は以後も続け、合流してくれるスタッフのやめない、合流してくれる先生の気持ちを汲んだ事務所運営を心がけるようにしています。 |
2014 | 横浜事務所、西東京(田無)事務所、千葉事務所、さいたま事務所出店 お客様とスタッフの身近なところに出店を続け首都圏で店舗数2位になる。急ピッチな出店のため、担当者には負担をかけました。 生駒会計の合流で資産税の、小山会計の合流でインバウンドの国際税務の仕事が増える。 |
2015 | 船橋駅前事務所出店 所長には事務所の「経営者」として、経営者であるお客様の気持ちがわかるように指導しています。金融機関との交流が深まり、担当者はもとより支店長、取締役とお会いする機会も増え、難易度の高い案件を優先して紹介していただけるようになってきました。地域に根差し、社会に貢献できる総合士業事務所作りに励んでいます。 |
2019 | 脳梗塞で倒れて2か月間入院 仕事中に急に倒れて大変ご迷惑をおかけいたしました。同時にお客様やスタッフがいることのありがたみをしみじみ実感しました。大阪出店(11拠点目)。 |
2020 | 新型コロナウィルス流行 発達志向型組織への変革プロジェクトがはじまる。 在宅ワークが本格的に普及。ネットの活用の必要性を再認識させられる。 |